私は憐れむ

キリシタン広場

※共産主義サイトにキリスト教関連記事があるからと言って、誤解をしてはいけないのは、共産主義とキリスト教が互いを擁護し合う関係にあるとは限らないということですね。そこだけご注意ください。あくまで投稿者の主張の一環として「共産主義ドットコム」にこの記事があります。つまり貨幣的価値に隷属しない社会をつくるうえで、物質的な豊かさの実現はそれはそれとして、実現した暁に精神の豊かさを生む助けになるだろうと、キリスト教の素敵な言葉を広めたいというわけです。

聖書(マルコ福音書)の中ででてくる「私は憐れむ」という言葉について。簡単に解説すると、これは、「食べ物が無くて衰弱してしまうなんて可哀想」という言葉です。

マルコ福音書の第八章に「その頃また大勢の群衆がいて、食べるものを持っていなかった。弟子たちを呼び、彼らに言う、『この群衆を私は憐れむ。もう三日間も私のところに留まっているのに、食べるものを持っていない。もしも彼らを空腹なまま解放して家に帰らせると、途中で衰弱するだろう。そして彼らのうち何人かは遠くから来ている』」という件があります。この後、イエスと弟子たちは食べ物を群衆に分け与えます。イエス自ら食べ物を施す様子が明確に書かれています。

言葉は種であり 蒔く者は言葉を蒔く

道に蒔かれると、鳥が来て食べる(別の教えによって否定されることの喩え)
石地に蒔かれると、根を生やさない(一時の共感で終わり些細なきっかけで失うことの喩え)
茨の中に蒔かれると、実を結ばない(異なる価値観との葛藤で蔑ろにされることの喩え)
良い地に蒔かれると、実を結ぶ(正しく理解できることの喩え)

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