なしていることを左手には知られないようにせよ

キリシタン広場

※共産主義サイトにキリスト教関連記事があるからと言って、誤解をしてはいけないのは、共産主義とキリスト教が互いを擁護し合う関係にあるとは限らないということですね。そこだけご注意ください。あくまで投稿者の主張の一環として「共産主義ドットコム」にこの記事があります。つまり貨幣的価値に隷属しない社会をつくるうえで、物質的な豊かさの実現はそれはそれとして、実現した暁に精神の豊かさを生む助けになるだろうと、キリスト教の素敵な言葉を広めたいというわけです。

聖書(マタイ福音書)の中ででてくる「なしていることを左手には知られないようにせよ」という言葉について。簡単に解説すると、これは、「自分の善い行いを衆目に晒すな」という意味です。キリスト教の聖書の中に、善行(≒義)に対する一定の認知としてこのような記述があるのです。

マタイ福音書の第六章に「だから慈善をなす場合には、偽善者が会堂や街路でなしているように、人々から誉められるために自分の前でラッパを吹き鳴らすな。アーメン、汝らに言う、彼らは自分の報酬をすでに受け取っているのだ。慈善をなす時には、自分の右手がなしていることを左手には知られないようにせよ。そうすれば自分の慈善は隠れてあるであろう。そして隠れたところを見給う汝の父が汝に報いてくださる」という件があります。この後に「お祈りの時も、自分の奥まった部屋に入り、扉を閉めて、隠れたところにいます汝の父に祈るがよい」という件が出てくきます。

パウロの信仰義認論とは、イエスの律法にこだわらない態度をさらに先鋭化し、人が、律法を守ることよりもむしろ信仰によって救われると考えたものです。義認とは、神が人を義人と認めること、すなわち神の救いです。たとえ罪人であっても信仰によって救われるとしました。これがユダヤ教とキリスト教との明確な違いです。そして上段落の件はキリスト教の信仰とは何かについて、かかる、重要な内容なのです。

言葉は種であり 蒔く者は言葉を蒔く

道に蒔かれると、鳥が来て食べる(別の教えによって否定されることの喩え)
石地に蒔かれると、根を生やさない(一時の共感で終わり些細なきっかけで失うことの喩え)
茨の中に蒔かれると、実を結ばない(異なる価値観との葛藤で蔑ろにされることの喩え)
良い地に蒔かれると、実を結ぶ(正しく理解できることの喩え)

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