貨幣を媒体とする孤立自由と労働市場真理教

総合

成熟した資本主義社会で、社会学者が、今はお金があれば一人で生きていけるという命題にコンセンサスを取ろうとしている。命題が真であるか偽であるかはさておき、たとえば医師が、医師として仕事を継続するには日頃の生活の一部を外部化して、たとえば料理を作ってくれる飯屋、髪を切ってくれる床屋や、通販の品物を運んでくれる運送屋などを時に必要とする、と主張していた筆者は、いかに人間が、外部化したサービスの担い手たる人間から孤立しているものかと驚嘆したのである。このような命題が真剣に取り組まれていることが既に、孤立だと言いたいのである。

お金があれば、お金で買えるモノやコトを自由に選べる。人間が孤立すれば孤立するほど、この選択の幅こそが「自由」と言わざるを得ない状況になる。だからこそ蓄財は善とされ、職業は自己実現の手段=天職だと考えられるのだ。いま日本で貨幣を得るには、新卒の頃に「天職を」と言えるまでの真剣さで求職をし、一つの職能にすがって生きるほうが利口だ。たとえばITならIT、それもたとえばインフラならインフラ、この生き様に正しさを与え続けているのが人間の労働力へ自由な値札をつけることができる自由主義的な労働市場である。自分を高く売れる道を選び続ける利口ささえあれば、自ずと天職という発想になる。

ここで名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、蓄財はあくまで勤勉の結果であり、勤勉は神の意志に従う宗教的義務である。したがって、職業は天職とはいえ「神から与えられた使命」としての意味をもつ。

筆者は、孤立自由は貨幣信仰を生み、貨幣信仰をもって自由主義労働市場は職業召命観を偽造したと思う。日本は労働市場真理教という宗教の国だ。

他者から信用されるにはどうすればいいのか筆者も悩んだことがある。人が当たり前にもっている感情、それは優しさ、思いやり、感謝。そういった感情が自分に向けられている時に、自分のそれを向かい合わせることで、人は人を信じ、関係性が生まれる。そもそも市街地の背の高いビルに然り、郊外の公共施設に然り、たとえば建造物とは人が人を信用しないと建たない。人が人を信用した痕跡に囲まれて暮らしているのに、他者を信用しないのは怠慢で怠惰なのだ。その怠慢と怠惰に孤立自由は拍車をかけると言わざるを得ない、しかし神は人と人の間に本当の自己実現を、解放を、つまり自由を隠したままだ。もちろん、ここで言う幸福を、労働市場真理教の信者が無関心とは全く限らないのである。クオリティ・オブ・ライフとか、ワークライフバランスとか、様々な言葉で綴られる、労働市場真理教信者が必死に幸せを掴もうとする議論は枚挙に暇がない。

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