日本の識字率は江戸時代から高く、文書主義社会の中で土地所有や教育が深く結びついていた。その土壌の上に、明治時代には「富国強兵」をスローガンに学校教育が始まった。この時期、国家の承認要件として、領土の防衛と国民の存在が重視されていた。しかし、兵役や軍隊の構築は簡単なものではなく、高い教育と訓練が必要だった。
第二次世界大戦後、戦争の形態が核・テロ・代理戦争へと変化し、現代では多国籍企業が主導する経済が台頭している。この結果、国家間の戦争は直接的な利益をもたらさない構造になりつつある。それでもなお、教育は国民国家の維持を目的としたものから、生物としての本質である子孫の繁栄や個人の幸福を追求する方向へと進化すべきである。
学校教育はこの一面的な見方に対して、有効な反論が出来なければいけないのである。たとえば「原子力発電所の作業員を生むためにトップエリートは必ず必要ですし、トップエリートになれなかった層が軍人や官僚になるわけです。その一方で問題は必要な教育が必要な人に行き届かない事です。殺人鬼は10万人に1人の割合ですが、その半数が中卒です。犯罪をしない事を徹底的に教わったに(あえてこういう言い方をすれば)すぎない者が、まずいて、彼らにも職があって安定していなければならない」などと、筆者ならそう主張する。
日本の教育は、機会均等を前提に能力に応じた仕事に就くためのもので、財産と相談しながら才能に応じた仕事に就くシステムと対照的なものだ。それはリベラルとデモクラティックの両方に共通する必要条件だ。教育なき平和とは、ノブレス・オブリージュの時代に退行する事だと思われた。
※某政党の勉強会に参加して感じた事の覚え書き
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