自己組織化という概念をはじめて大学で学んださい、筆者は「小学生が休み時間にサッカーをして遊ぶときでさえ自然とFWとDFで分業がおきる感じだろうか」と理解した。これは小学生の集団がサッカーチームとして自己組織化する例である。しかしこれは自由主義経済の自己組織化を語るうえではこころもとない例え話である。なぜなら、たとえばFWの強い学校にして、全校生徒がFWの練習をして、いざ試合になったらDFは他所の学校から借りてこよう、などとはできないからである。
労働市場で、賃金の高い産業(業界)は、財市場で厚い需要があり、生産量に見合った売上高が見込まれているから賃金が高いのである。さらに企業経営の単位でみれば、コアコンピタンスのある企業ほど財市場で競争に強く、高い賃金を支払えるから、生産性の高い労働者や高学歴新卒を雇用でき、よりコアコンピタンスを獲得できるのである。
このメカニズムが働く自由主義経済は、国際競争に晒される輸出産業を長期間強いまま生かしていくうえで都合がよいものだ。しかしそれは日本経済の頂点的企業群を鉛筆の芯のように尖らせて誇るような感覚に等しい。
農業生産性といえばコメの自給率が高い日本で、豊かな食卓を実現するさい多様な食材の多くを輸入に頼っている。日本で食の豊かさを実現するためには、輸出産業の国際競争力とは必須なのである。
このような視点であれば自明であるが、つまり輸出産業の国際競争力が国民生活の基礎的な豊かさのためであるならば、障碍者を含む社会的経済的弱者が、一定の貨幣的価値によって生活の基礎的な豊かさを享受することを蔑ろにしてはいけないのである。物言わぬ労働力として、「社会の底辺」という差別用語のもと搾取される立場に置かれていては、自由主義経済圏とは自己矛盾なのである。
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