アダム・スミスの『国富論』を勉強していると、「土地」という概念に頻繁に出くわすし、それが「富」を構成するものだと主張される。それはその通りだと思った。広大な土地を持っていればそのぶん豊かだろうし、仁徳が無ければ他者に奪われるんじゃないかなと筆者は思う。このような理解では「あと百回読め」と言われるだろうか。
しかし、こういった「稚拙な共感(読めた部分を切り取って共感すること)」を誰かが強制力をもって食い止めることは出来ないだろう。マルクスの『資本論』も、重商主義批判との明確な乖離と言えばブルジョワへの憎しみがまず真っ先に稚拙な共感を生むと思われる。筆者も、マルクスはブルジョワを憎んだという点で、アダム・スミスの重商主義批判と明確に異なる主張だと他者に説明してしまいそうだ。それなりに鋭敏な自由主義論者であれば、資本主義が重商主義に陥ることを最も危惧しているのだと述べるが、愚鈍な自由主義論者は資本主義は重商主義を包摂したと思っている(そうとしか思えないほどに愚鈍な)のである。この鋭敏な自由主義論者がやるような重商主義のキープアウトでは、マルクスは物足りなかったのだろうかと、やはり、筆者は説明してしまうのである。
ジョン・レノンが有名だが、音楽家に平和主義者や反戦主義者が多いのは、音楽の世界で稚拙な共感が善であることが背景にあると筆者は思う。ある国の民謡が、なんとなく、別の国の新しい民謡に生まれ変わるとき、音という感覚で「いいね、素敵だね」と思われたものが伝承されていく。単純にいいなと思ったから、自分もそういう音を奏でたり、口ずさんでみたいんだという感じで、世界が平和につながっていくことの価値を、音楽家の誰しもが守りたいのではないか。
共産主義の考え方ほど、稚拙な共感が狂猛な一理に化けたものも珍しいのではないかなと思う。そして輪をかけて平和からそっぽを向かれるのではないか。稚拙な共感を禁じられた領域は音楽とは逆に平和のつながりを持ちづらく、平和という価値観から(どういうことかと言うと、平和を人に喩えるなら平和の女神がいて、彼女から、そこに住んでいたくないわと)そっぽを向かれてしまうのだろうか。
そもそも基本的人権の尊重に従って、人は事実と異なることを述べても構わないし、論理的でないことを論じても構わないのである。教育とは、基本的人権に抵触する統制であり、国家権力の行使なのである。事実であることと論理的であることの二つを崇拝していればそれを教育と称し、それ以外の信仰を排撃しているのである。何を書いても構わないし、何を言ってもいいですよとしなければ、人は何かしらの価値観に隷属するのだろう。
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