裁くな。裁かれないためである

キリシタン広場

※共産主義サイトにキリスト教関連記事があるからと言って、誤解をしてはいけないのは、共産主義とキリスト教が互いを擁護し合う関係にあるとは限らないということですね。そこだけご注意ください。あくまで投稿者の主張の一環として「共産主義ドットコム」にこの記事があります。つまり貨幣的価値に隷属しない社会をつくるうえで、物質的な豊かさの実現はそれはそれとして、実現した暁に精神の豊かさを生む助けになるだろうと、キリスト教の素敵な言葉を広めたいというわけです。

聖書(マタイ福音書)の中ででてくる「裁くな。裁かれないためである」という言葉について。簡単に解説すると、これは、「他者の欠点が欠点として見える原因は自分自身にあることに気がつきなさい」という意味です。キリスト教の聖書の中に、善行(≒義)に対する一定の認知としてこのような記述があるのです。

マタイ福音書の第六章に「裁くな。裁かれないためである。自分が裁くその裁きによって自分も裁かれる。また自分が測るその測りによって、自分も測られる」という件があります。この後に「屑」「丸太」という文言が出てくきます。兄弟の目に屑がついているならば、貴方の腹には丸太があると言うのです。

言葉は種であり 蒔く者は言葉を蒔く

道に蒔かれると、鳥が来て食べる(別の教えによって否定されることの喩え)
石地に蒔かれると、根を生やさない(一時の共感で終わり些細なきっかけで失うことの喩え)
茨の中に蒔かれると、実を結ばない(異なる価値観との葛藤で蔑ろにされることの喩え)
良い地に蒔かれると、実を結ぶ(正しく理解できることの喩え)

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